■伝・真田信繁(幸村)所用
朱𩊱六十二間小星兜
-上州住成重作-
(戦国時代)
大坂夏の陣において、越前松平忠直家中・西尾宗次が真田信繁討ち取りの際に分捕ったものと伝えられています。
(寄託調査品-個人蔵-)
(彦根井伊家伝来)
(寄託調査品-個人蔵-・資料細部状況調査中)
彦根井伊家蔵品記録の明細に合致する子供鎧で、井伊直元の愛玩遺品とされています。いわゆる玩具鎧と称するもので、江戸時代迄さかのぼる遺品は全国的にも希少です。
本品は小型ながら兜も胴も鉄製で細部が入念に仕立てられ、面具が鳥天狗となった特注品です。もとより彦根藩井伊家公子所用の子供鎧としては唯一のものです。全体を朱塗りにせず、金と黒の一般的高級具足の色調を採っているのは純粋な赤備えとしての軍用ではなく、大名の鑑賞用高級甲冑という意識によるものです。
井伊直元は彦根第14代井伊直中(代数は歴史的事実による数え方です)の子で、藩主就任直前に38才で病死しました。仁慈の心篤い名君で、同腹の弟直弼が藩主になれたのは実はこの仲の良かった兄直元が亡くなったからだと言われています。歴史は非情、皮肉なものです。
写真では成人用甲冑と同じ規模の雰囲気ですが、飾り立てた本体の丈は約60cm程です。
■井伊直元愛玩 紅糸威金伊予札鉄立矧二枚胴子供具足
当館依頼調査による
甲冑刀剣由緒品聚
天正10年夏、家康は甲州若神子において北条氏直の軍と戦いました。秋になり講和の議がおこり、井伊直政が正使となって北条方に赴き、和議を締結。大きな使命を果たした直政は時に22才。本文書は直政が戎衣の内に秘めた講和の条件を記した重要なメモで、直政自筆の政治文書としては最も時代的に古いものです。(『大日本史料』『井伊直政歴史関係文書』『井伊軍志』等所収)(井伊家蔵)
■志津短刀袋と直政自筆条書入れの袋
■伝武田勝頼所用・高家宮原氏寄進
金箔押朱日輪紋胴丸具足
本伊予札丸胴に、銀総覆輪阿古陀形の筋兜が添っています。胴の日輪紋は力強く、時代の好尚を示しています。名号の前立は、世上にあるもののほとんどが後補ですが、これは本歌です。
安永の頃、富士山麓の正寿院に奥高家宮原長門守より修理寄進された旨の記録があります。宮原氏は武田勝頼の娘が嫁いだ武田氏の縁家で、兜や胴の要所には花菱紋、具足櫃には四菱紋が据えられています。
(寄託調査品-個人蔵-)
この赤地錦の袋は江戸中期末頃に仕立てられたものと思われます。この中に青年井伊直政が小田原北條氏のもとへ和睦の使者に赴く時、交渉要件を箇条的にメモしたいわゆる直政自筆条書(条書はこちらをご覧下さい)と井伊直虎(次郎法師)より護身用として贈られた志津の名刀が納められていました。付箋と袋内側に由緒書があります。
(寄託調査品-個人蔵-)
(寄託調査品-個人蔵-)
(寄託調査品-個人蔵-)
この刀剣の姿体について説明的に記すと次のようになります。
「―志津とは元来、美濃国の地名であるが、此の地に正宗の門人兼氏が来住して作刀したことから、地名をとって志津三郎兼氏と呼称している。従って、単に志津と呼んだ場合、兼氏を意味することになる。古来、彼は正宗十哲の一人に数えられ、それらの中にあって正宗に最も近い作風を示す刀工の一人であって、尊称して「大志津」(おおしず)ともいう。本作は板目に杢目を交え、総じてつみ、地景細かく頻りに入り、刃文は湾れ調に互の目が頻りに交じり、沸厚くつき、金筋・砂流し頻りにかかる等の出来口を示している。一見して相州伝上位の秀作であり、比較的大きめの互の目が連れて焼に高低を見せる刃文の出来口には、在銘や古来の無銘極めの志津兼氏の短刀に強く結ばれるものがあり、ここに志津の極めが首肯される。なお本刀は、通常の兼氏在銘の短刀に比してやや寸延びで内内反りのついた姿形であるが、重文の名物稲葉志津の短刀に、本作とやや似た姿形を見る。地沸が一際厚くつき地景の夥しく入った鍛えは明るく冴え渡り、刃中は光輝く刃沸で一杯に満たされ、金筋・砂流し頻りに閃くなど、相州伝上位作の美点と技倆の高さを余す処なく示した出色の一口である―」
天正十年徳川家康は甲州若神子において
北条氏直の大軍と戦いました。これを世に
若神子陣といいますが、戦線は少勢の徳
川軍優位の内に推移し、やがて北条側から
停戦和平の提案がされました。この時、徳
川方の初議の使者として選ばれたのが、井
伊万千代直政でした。彼は心中勇躍しつつ
万一の場合の覚悟をもって北条方に乗りこ
み、無事大任を果たしましたが、その時鎧下
着の内にひそかに忍びもって行ったのが、直
虎より贈られたこの志津兼氏の懐剣でした。
万一不慮の際には北条方の主な者をあたう限
り斃し、直政自身も自殺するための必死の道
具だったわけです。大志津独特の地刃の烈し
さに勝るとも劣らぬ直政の気概偲ぶ貴重な史
料でです。直政若干二十二才でした。ここから
井伊直政の異数の立身がはじまったのです
(HP別集井伊家史料文書類参照)
鎬付の南蛮式の胴に、白植毛の長い異形の前立をつけた南蛮風の兜を具した桃山期の実戦具足。六文銭の吹流が附属しています。真田信幸所用と伝えられる特色ある近世具足です。
(寄託調査品-個人蔵-)
幕末の大老井伊直弼が万延元年三月三日(1860年)上己の節句の賀儀のため登城中、桜田門外において水戸薩摩の浪士によって襲撃され殺害されました。「桜田門外の変」として史上著名な大規模テロ事件ですが、この時井伊家の供頭をつとめた日下部三郎右衛門令立が身につけていた大小の刀が発見されました。季節はずれの大雪のため供侍は柄袋や鍔覆い、鞘革など刀を完全に防護して出立したため応戦できず、悲惨な状況となったことは周知の事実です。日下部の両刀は井伊家独特の鞘革に柄袋などが現存(柄袋には刀疵)した貴重なものです。日下三郎右衛門は水戸側に最初に襲撃(即死)された藩の上士です。ちなみに後をついだ養子が明治に至って日本の書聖と仰がれた日下部鳴鶴です。
■桜田門外の変
井伊家供頭 日下部三郎右衛門の佩刀(無銘大小揃)
■伝・真田信幸所用
刈白熊異形前立付
銀南蛮形五枚胴具足

■蜂須賀正勝(小六)所用
鯰尾兜付亀甲紋
包韋腹巻具足
いわゆる鯰尾の典型的な変り兜を具した甲冑です。豪宕な桃山期具足の代表格といえます。
かつて徳島城址にはこの甲冑を着した蜂須賀正勝の銅像がありましたが、戦争で供出されてしまい現在は写真でしかその姿を確認することができません。
(寄託調査品-個人蔵-)

■黒田孝高(如水)所用・伯爵金子堅太郎拝領
刀 無銘 伝景光
長曽祢利宗は一山と号し、介七(助七)を通称とする江戸前期の甲冑師で、姓は橘氏を称しました。利宗の銘の兜はわずかに筋兜が認識されていますが、それ以外は発見されていません。この兜は利宗の数少い正真銘のある作品で、勿論変り兜は現在の処本作が唯一です。長曽祢派甲冑師の研究資料として重要な作品です。
(寄託調査品-個人蔵-)
■著名刀匠長曽祢虎徹の一族 長曽祢利宗作
変り型唐冠形兜(奥平家伝来)
黒田家伝来如水所用の刀です。旧福岡藩士で明治期には大日本帝国憲法の起草にも参画した政治家・法学者の金子堅太郎が、大正五年(一九一六)、旧家主の祖である黒田如水の伝記『黒田如水伝』を著した際、侯爵・黒田長成より如水の愛刀として黒田家に伝わった本資料を譲り受けた旨、金子の自筆で白鞘に鞘書があります。
景光は鎌倉時代末期の備前長船を代表する名工です。よくつんだ自鉄と片落ち互の目の刃文に特徴がみられます。 (寄託調査品-個人蔵-)
(寄託調査品-個人蔵-)
黒田家伝来如水所用の脇指です。福岡藩主黒田家の刀剣売立目録所載です。白鞘に黒田家時代のものと考えられる「如水公御遺物」貼紙があります。
兼春は室町時代中期から後期にかけて見られる美濃国・関の刀工銘です。如水孝高青壮期にはこのような実用刀を常用としていたのでしょう。
■黒田孝高(如水)所用
脇指 銘 兼春作
茎切付銘「竹中重治所持」
戦国の智将竹中半兵衛重治の愛刀であり、
旧恩賜京都博物館(現・京博)の保管刀で、館長の資料発見と考証により世に出た由緒刀です。元来、関の元重とされていますが、関の元重の有銘確実刀はのこされていないので、正確なところはわかっておりません(平成11年著『剣と鎧と歴史と』参照)。
(寄託調査品-個人蔵-)