<御願い> 作家や研究者の中には、原著作者出版前に無断盗用しそれをあたかも自己の説、又は発見として先に発表発刊する者がいます。 拙著『井伊軍志』において、その連載中(『湖国と文化』)に某作家(故人)による盗作被害をうけたことがありました。本人の陳謝反省により名は出しませんが、数十年以前のことながらいまだ記憶に新しいにがい憶い出です。 同著に於ける同様なことは他にも類似の行為があるやに聞いています。実作者として百歩退いて考えればありがたいことかも知れませんが、場合によっては後に本にした実作者が盗作者呼ばわりされかねない懼れがあります。このような行為は固く慎んでいただきたいものです。 参考引用される場合は必ず事前にその旨御連絡下さい。博く利用されることは結構なことだと思いますが、その場合あく迄正々堂々の精神で行きたいものです。 著者 |
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「甲界都鄙紳士録」より抜粋
○笹間良彦氏
このシリーズで、笹間良彦氏をとりあげなくては片手落ちになるであろう。氏は甲冑研究という極めて特殊な分野に対する興味を一般普遍化したという点では、断然第一の功労者というべきだろう。これは確かなことである。それ以前、甲冑武具という、いまだまともな学問の対象としては敬遠されていた――というよりこの分野は真正面からの登攀(とうはん)を容易に許さない未踏の大連峰であったから、誰も挑戦征覇をなし得なかった世界である。この処女地をはじめて踏査し、砕石の破片までを集めて体系的に分析研究をした先駆的偉業者に山上八郎氏がいる。たとえば笹間氏は山上氏の通りすぎて久しい道を丹念にもう一度歩き直し既に雑草で覆いつくされた、ところによっては道筋も絶えたような荒蕪(こうぶ)の地表を蔓かづら、茨草いちいち切り拓き、一般の人々も容易に往来できるように安全な山歩きのための案内の看板を設置したような人である。
山に馴れた人のなかには、ここは少し旧道とは異なる山路をガイドしている、間違っているのじゃないか、と異和感を持つこともあろうが、要は大道につながっておれば良いと思う。余り細かいことはいわずに汗を流して登ることである。私の評に対し、笹間氏はそこまでの手間仕事はしていないという意見をもつ人もいるかも知れない。しかし数多くのこの世界に関する著書を世に送ったガイド的な手柄は仮に先人の敷衍(ふえん)の範囲であったとしても、オリジナル性が余りなかったとしても、迷える者に対する立派な道案内人であったことは誰も異議あるまい。
私は元来、自分から積極的に外部に働きかけるという趣味がない。殆ど出不精で居所に胡坐をかいたまま半世紀以上をすごしてきた。だから笹間氏とも密接なお付き合いをしたことがないが、二、三、思い出噺がある。
昭和四十五年、井伊家の赤備えに関する小冊を出版(『彦根藩朱具足と井伊家の軍制』)したことがある。促成栽培のきわめて粗笨であったが、これはなぜか当時のメディアに意外に大きく取りあげられ、方々から注文をもらった。甲冑界の大先達山上八郎氏からの申込みが最も印象にのこっているが、その中に笹間氏もあった。以後私と笹間氏は文通するようになった。多くは私の質問に対し笹間氏が答えてくれるという内容が多かったと思う。井伊家の歴史や武具に関する問合わせを得たこともあるが、そんなにしばしばのことではなかった。師事という点では文学上で何人か仰いでいる人がいるが、この世界にはない。しかし教示をうけることがあれば分類上「それは先生」ということになる。氏の筆蹟は几帳面に整っているが、やや斜体で終筆を屈曲させる癖があった。島崎藤村の字に似ていた。以前本欄に紹介した山田紫光氏のごとく書をやった人の文字ではないが雑な書き方ではなかった。
ある地方の甲冑展の図録に、『信玄袋形』と表記した兜が出ていて、これは兜巾形の誤りではないかと氏にただしたことがある。現在甲冑をやる人は兜巾の変わり兜の名くらい誰でも知っている。甲冑の常識教育(これにも氏の著書の力があずかっている)が行き届いているが、その頃はまだ一般化していなかった。氏からは直にその通りですという旨の長文の返事をもらったが嬉しかった。この兜は奇縁があって私の持ち物となり、氏の『日本の名兜』(昭和四十七年)に掲載されたが、今は手許にない。その後いかなる転変を経て、今は誰方が所蔵しているのだろう。
その内遊びに来て下さいと何度もいわれ、家人同伴で一度お邪魔したことがある。熱海の網代の山の上の御宅で、こじんまりながら、瀟洒(しょうしゃ)な佇まいの山荘であった。記憶が正しければ細川某氏旧宅とのことで垢抜けている理由がわかった。
玄関入ったところに六十二間の筋兜が置かれていた。どこにでもある筋兜であるが、前立の角本の装置がちょうど浅間神社や寒川神社所蔵の武田家ゆかりの兜と同様の祓立と並び角本を併用した珍しい形をしていた。それが生ぶのものであったか、後代に仕立て直されたものであったか、多分後者であったろうが、たしかな記憶がない。部屋の間取りなどもう全く思い出せないが、座敷に黒韋胸萌黄白威の胴丸が飾られていたのははっきり覚えている。惜しいことに押付板と肩上を失っていた。いま『日本甲冑名品集』(雄山閣、昭和四十三年、笹間良彦・飯田稔編著)の説明をみると、そのことには触れていないが、草摺が一間分後補であるという。飾ってあるものを、そのまま距離をおいて見ただけなので、それには全く気付かなかったが、破損がひどくても当時としては立派な憧れの対象であった。
奥様の手料理で結構な晩餐まで饗された。ビールの勢いも手伝って
「この胴丸、もし手離される時は是非僕にも声をかけて下さい」
厚かましくもいったものであった。三十歳にまだ二つ三つ年が足らなかったあの頃の若さが羨ましい。
泊ってゆきなさいと親切にいわれるのを辞して帰ることになったが、そこから予想もしない事態になった。笹間氏の熱海の山荘は、新幹線の熱海駅でおりて、そこから網代まで電車にのりかえ、そしてタクシーで山の方へむかうという道筋であった。帰りはつまりその逆を行けばいいのだが、どこかで齟齬を来した。タクシーが下山に手間取ったのもあったのもあったろうし、新幹線の熱海までゆく網代からの接続の電車の時間の具合をしっかり調べておくべきだった。時間的には十分に帰りの新幹線に間に合うよう氏のもとを出た筈が、乗り遅れてしまった。要するに最終に乗り遅れ、いかなる方法をもってしても関西方面へは帰れなくなってしまったのだ。まるで野次喜多道中である。
近辺に俄か泊りでも一泊するところくらいはあった筈だが、一切そんなことは考えられず、気がついたら駅の公衆電話から「笹間先生」を呼び出していた。
「・・・・・・あ、そうですか、遠慮要りません。もう一度戻られて泊まられたらいいですよ」
地獄で仏の声である。
まさか駅頭で熱海の土産を買うこともならず、素手でそのまま「笹間山荘」へ舞い戻った。突然的に夫婦揃って風呂まで頂戴し、再び甲冑話。図らざる見事な倖せの夜となった。御夫婦にはまこと御迷惑であったに違いない。
あくる朝、迎えのタクシーを待っている間、ふと入り口の柱に不自然な穴が数ヶ所空いているのを認めた。送りに出た氏が私の視線の先を目ざとくみつけ、
「―啄木鳥のつついた穴ですよ」
清爽の朝風が樹々の間を吹きぬけ、少し黄色くなった葉群をそよがせた。
―昨夜の失敗はあってよかったな。
こちらの一方的な不注意を転じて福にしてくれた笹間氏御夫婦には悪いが、心の奥底から感謝の念が湧いた。
こうして私は笹間氏から篤い一宿一飯の恩義を被った。任侠の世界ではないが、この思いはいまだ秘そかに私の心の中に生きている。
その後、といってもまだ彦根在住の頃のことだから、この事から一、二年位あとか。知人が井伊直富(大老井伊直幸の世子)の具足を入手したのでそれに係って氏を彦根にお招きしたことがある。氏と知人と私の三人の特別研究会である。あくる日は例によって彦根城を案内した。当時市長をしていた井伊直愛氏の蔵品を展示した井伊美術館(現今は同氏の寄贈品を核にして彦根城博物館となっている)が天秤櫓の中に設けられていた。井伊直孝所用と伝えられる大天衝の美麗な具足の前に立った氏は
「―こんなに美くしすぎるものは本当の時代があるのかどうか」
憮然と云った。
たしかに大天衝は生ぶではなく明治の後補であるし、威しは勿論朱の塗漆も直孝時代江戸初期のものではない。有名な白熊の飾り毛も本来のものは何も遺されていないのだ。
「―井伊家の甲冑類は皆手入れが良すぎて、若く見えるのですヨ」
何とも答えずに、次に、
「象牙ですか、アレは、白さがいやに目立ちますネ。古い時代にはありませんヨ」
高紐の鞐の用材が気に入らないようだった。
私は問答を遠慮した。一宿一飯の恩義―を思い出した。
だからいまも要らぬことは書かない。
私のこういう思い出噺もみんな何十年も昔の夢物語ばかりとなった。通りすぎた人々のことはなるだけ振り返らないことにしているのだが・・・。
無常迅速―。