家康に過ぎたるものがふたつある
    唐の頭(からのかしら)に本多平八
とうたわれ本多忠勝と共に天下に知られた唐の頭というのは、南アジアに生息するヤクの尾の毛です。いわゆる南蛮渡来の珍品で、当時大変高価なものでした。その頃、まだ三河の一大名にすぎなかった家康が贅沢にすぎるこの珍品を兜の装飾品に使わせていたことを、敵である武田の将小杉右近助が三方原の戦いのとき一言坂の上に立札をたて落首したことで天下に知られました。そのうたにはなかば讃辞、なかば揶揄が入っていますが、その頃家康の軍中七人の将が唐の頭を兜になびかせていたとのことです。
 掲示の唐の頭は彦根井伊家に伝来した、尾部の軟骨がついたままの未使用原躰品です。勿論現存最古の「使用前」唐の頭です。

※うたは一般に「ふたつあり」となっているようですが、江戸の関係古書記載の方を採りました。こちらは破格ですが、戦国田野の雑味があるやに思われます。 
(館蔵品)
『井伊直弼史記』にて、唐の頭に触れています。











       
                    
唐の頭(彦根井伊家伝来)

(寄託調査品-個人蔵-)
徳川斉昭が高須藩主松平義建に贈った自製の筝。
筝の裏には斉昭自製の歌が高蒔絵で施され、内部には朱で斉昭の自筆による製作場所、年号、花押などが彫られています。箱には義建に贈った旨が書かれています。
年号は弘化二年とあり、そのころの斉昭は謹慎中の身でした。義建は斉昭の姉を正室にもち、斉昭とは同じ年齢でもありました。その頃に謹慎中の斉昭を義建が励ますというような行為があり、筝はそれに対する返礼であったのかもしれません。大名が自作の楽器を贈るということは大変珍しく、二人の親しい間柄が感じられます。
斉昭は和楽、特に筝が堪能で、江川太郎左衛門に筝を弾かせたという逸話があります。
幕末の開鎖の論議が沸騰する一方の立役者がこのような深い趣味を持っていたことをうかがわせる貴重な史料です。
 
水戸斉昭自製の筝


 岡崎市美術博物館「徳川四天王本多忠勝と子孫たち
―岡崎藩主への軌
跡―」展へ

 貸出協力しました。詳しくは美術館だよりをご覧下さい。

井伊直政・本多忠勝宛
『符諜余禄』所収
黒田長政・徳永寿昌他連署状
    
慶長五年八月十九日
(井伊家蔵)
関ヶ原の前哨戦において、木曽川を渡河し、岐阜攻めを決定した東軍の混成部隊が、井伊・本多の両監軍に対しその状況を説明し、併せて家康の一刻も早く出馬を促したものです。読後火中の秘密文書がこうして遺されてるのも興深く、文書の重要性が当時から承知されていた証左です。井伊直政と本多忠勝が並んで手に取ったところを想像すると興趣を感じます。


明智光秀書状
    
天正九年四月晦日 木俣清三郎宛
(井伊家蔵)
のちに井伊家の重臣となる木俣清三郎守勝はもとは徳川家康の直臣でした。彼は一時光秀の幕下にあり、片岡城や神吉の城攻め等で数々の殊光を樹てました。木俣は天正九年、家康のもとへ帰参しましたが、本品はその直後の光秀の手紙です。文中高天神落城のことや家康を呼び捨てにしている等、当時の状況や光秀の威勢が手に取るようにわかる面白い資料です。
-井伊嫡家伝来-

織田信長黒印状(徳川家康宛) 
本文書は家康(三河守-永禄九年より)が高天神城を攻略(天正九年三月落城)し馬伏塚の要害へ陣替した天正八年十月頃、家康より贈られた鷹野の鶴に対する信長の返状。旭日昇天の勢いにある信長に対し絶対服従を強いられていた家康苦難の時代。信長の家康宛文書は極めて少く、既出文書は四点(「織田信長文書の研究」)で本書を含めて五点のみで、この時代の家康の文書も寺社宛のものが殆どです。本書状は保存状態が惜しまれますが、両者の個人的交渉が窺われる貴重な新発見史料。尚文中の西尾は信長の臣・小左衛門(隠岐守)吉次のこと。高天神城を家康が攻撃したこの時期、監察として派遣されています。
当時家康の側で召し使われていた万千代直政が家康より貰い受け、井伊嫡家に伝えられました。本史料は数年前に発見されていましたが、新しい事実が判明しましたので所蔵者の希望により再掲しました。
                                           (寄託調査品-個人蔵-)



北政所寧々と淀の方、それに秀頼(背中向きの幼童)、豊家の子女三人を桜の下に配した
大変珍しい屏風です。筆者は狩野秀頼といわれ、同人の高雄観楓図屏風(国宝)と一部
似通った構図をとっています。左下の池には秀頼の玩具船が描いてあります。
豊臣氏母子遊宴図屏風
(寄託調査品-個人蔵-)
(寄託調査品-個人蔵-)
名古屋隼人絵姿図
風俗図集等に所載され古来著名な構図の若衆図。これが名古屋隼人の容姿を描いたものであることが本図の発見で判明しました。隼人は出雲の阿国と浮名を流したとされる天下の美男名古屋山三郎の息子で、加賀前田家に仕えました。図中の「蝙蝠羽織」が時代を表徴しています。
             
(伊達家伝来個人蔵)
二代将軍秀忠が戯れに画いて讃をした珍しい掛物です。文字は「すまぬ さんだん ゝ (算段)」。画中の人物像はどうやら当時交易に出入りしていた外国人のようです。 
                                     
徳川秀忠自画讃


            百間橋の状況
かつて城の西方・松原の湖岸から現在の清涼寺の前付近までかかっていた橋で、伝説では長さが三百間あったといわれています。
島左近屋敷付近
物見櫓のようなものが見えています。
              本丸
落城後井伊家によって石垣が全て撤去され、山頂はさらに削り落とされました。本来、城下から見上げれば山容は高く尖って聳えており、その様がこの図からうかがえます。
 石田三成の居城佐和山の城容を彦根側から描いた珍しく貴重な屏風が確認されました。旧彦根藩士の子孫であった大久保章彦(当時埋木舎主人)が井伊家の家扶をしていた時代の名刺が貼付されているので、井伊家の旧蔵品であったと推定されます。図中には彦根藩士で『彦嶺美談』の著者でもある佐藤貞寄の解説識語(文政十年)があります。
 佐和山城を主体的に描いた屏風は本作のみです。(大久保家旧蔵-個人蔵)
                    
石田三成  佐和山城図屏風

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貴重資料紹介


 本来本多上野介正純が愛用していた朱鞍で、正純失脚後山口の毛利家の有となり、清水五郎左衛門が所管していました。桃山時代鞍打の名人井関の作品で、前輪と後輪に瀬田の唐橋の図柄が金銀蒔絵されています。当時東国から京に向かうには琵琶湖の水運が速いとされていましたが、それは比叡おろしの強風を受ける危険な航路でした。そのため連歌師宗長により、
  もののふの矢橋の舟は速くとも
  急がば回れ瀬田の長橋
の歌が詠まれ、今日の「急がば回れ」の語源となりました。人生の教訓、馬術の極意を表した意匠です。同時に、瀬田の唐橋を制することは京が間近くなったことを意味し、すなわち天下を制することにも繋がります。
 ちなみに「鉄之鞍」という号ですが、詳しい由来は分かりません。

 本多正純は本多正信の嫡男で、家康に重用され幕府第一の権勢を誇りました。下野国小山藩主ののち、同宇都宮藩主。講談「宇都宮釣り天井」でも有名な人物です。
 清水五郎左衛門は有名な備中高松城を死守し切腹した清水宗治の次男で美作守。実名清水景治。毛利家中由緒ある重臣でした。
(寄託調査品)


名物「鉄(くろがね)の鞍」
 ―本多正純所用・毛利家伝来―

秀吉から宇喜多秀家に与えられたと伝える轡です。いわゆる「太閤轡」と称されるもので、「山城国住市口直正」の作銘があります。
時代考証家山田紫光氏の識語があります。 (寄託調査品-個人蔵-)
                    
太閤轡(伝・宇喜多秀家拝領)

宛名の「小寺」は御着城主政職の家臣・小寺勘兵衛(黒田勘兵衛-孝高-)と推定されます。置塩(赤松則房)、龍野(赤松広貞)に触れ、置塩の人数、付城についての指示を与えています。「佐久間」は信長の武将で、この時石山本願寺攻めを担当していた信盛です。荒木村重を主力とする軍勢が播磨に入るのは天正三年十月。九月五日付のこの書状はそれに先立って赤松に対する指示が出されたもので、当時の差し迫った様子がうかがえる資料です。往古の水害で朱印など明瞭でない箇所もありますが、正真であるのは間違いありません。勘兵衛宛の書状は特に貴重です。
                                                          (寄託調査品-個人蔵-)

織田信長朱印状(黒田勘兵衛孝高宛)
 


(寄託調査品-個人蔵-)
朱地金井の字背負旗 (彦根井伊家伝来)
いわゆる「四半」と称する自身指物で、この規模のものは井伊家公子の所用品です。
寸法は縦約88cm、横約60cm。
一般の井伊家士の指物より大型です。
井伊直孝の嫡子直滋所用と伝えられる伝存極めて希少な井伊家古軍旗のひとつです。

当時の風儀からみるとかなり強烈な艶書というべきもので、直弼の女性にかかわる恋の手紙としては新発見、唯一のものです。柳王舎主人という雅号からその時期は天保十三年過ぎ、たか女と別れて間もない頃のものと思われます(天保十三年冬には側室静江ができます)。

かなり周到に準備された内容ですが、文字は大変癖字の、本人も書いているように乱筆です。若い頃の独特の「痩せた」文字です。直弼は晩年に向かうほど、「肥えた」文字へと変化していきます。

*この書状についての詳細はこちらをご覧下さい。

                       (館蔵品)
井伊直弼自筆艶書(村山たか宛)
 
(写真は一部)


徳川秀忠宣旨
(寄託調査品-個人蔵-)
徳川秀忠が参議(宰相)、右近衛中将に任ぜられたときの宣旨。当時秀忠は13才でした。
この事は『徳川実紀』『公卿補任』『言経卿記』他、関係諸書に記録されていますが、原本がこのようにのこされてるのは珍しいといえます。
この天正19年という年は、千利休の切腹や豊臣秀長や鶴松の死、豊臣秀次が関白になった年でした。前年には豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡しました。本書はまさに激動 の時代の貴重な証人といえるのではないでしょうか。
(寄託調査品-個人蔵-)
前田正名が九州宮崎の地で発見し愛蔵していたもので富岡鉄斉が譲り受け珍重していた鎌倉時代の轡です。
鏡轡 (鎌倉時代富岡鉄斉・旧男爵前田正名旧蔵)