本来本多上野介正純が愛用していた朱鞍で、正純失脚後山口の毛利家の有となり、清水五郎左衛門が所管していました。桃山時代鞍打の名人井関の作品で、前輪と後輪に瀬田の唐橋の図柄が金銀蒔絵されています。当時東国から京に向かうには琵琶湖の水運が速いとされていましたが、それは比叡おろしの強風を受ける危険な航路でした。そのため連歌師宗長により、
もののふの矢橋の舟は速くとも
急がば回れ瀬田の長橋
の歌が詠まれ、今日の「急がば回れ」の語源となりました。人生の教訓、馬術の極意を表した意匠です。同時に、瀬田の唐橋を制することは京が間近くなったことを意味し、すなわち天下を制することにも繋がります。
ちなみに「鉄之鞍」という号ですが、詳しい由来は分かりません。
本多正純は本多正信の嫡男で、家康に重用され幕府第一の権勢を誇りました。下野国小山藩主ののち、同宇都宮藩主。講談「宇都宮釣り天井」でも有名な人物です。
清水五郎左衛門は有名な備中高松城を死守し切腹した清水宗治の次男で美作守。実名清水景治。毛利家中由緒ある重臣でした。
(寄託調査品)
宛名の「小寺」は御着城主政職の家臣・小寺勘兵衛(黒田勘兵衛-孝高-)と推定されます。置塩(赤松則房)、龍野(赤松広貞)に触れ、置塩の人数、付城についての指示を与えています。「佐久間」は信長の武将で、この時石山本願寺攻めを担当していた信盛です。荒木村重を主力とする軍勢が播磨に入るのは天正三年十月。九月五日付のこの書状はそれに先立って赤松に対する指示が出されたもので、当時の差し迫った様子がうかがえる資料です。往古の水害で朱印など明瞭でない箇所もありますが、正真であるのは間違いありません。勘兵衛宛の書状は特に貴重です。
(寄託調査品-個人蔵-)
当時の風儀からみるとかなり強烈な艶書というべきもので、直弼の女性にかかわる恋の手紙としては新発見、唯一のものです。柳王舎主人という雅号からその時期は天保十三年過ぎ、たか女と別れて間もない頃のものと思われます(天保十三年冬には側室静江ができます)。
かなり周到に準備された内容ですが、文字は大変癖字の、本人も書いているように乱筆です。若い頃の独特の「痩せた」文字です。直弼は晩年に向かうほど、「肥えた」文字へと変化していきます。