天正十年徳川家康は甲州若神子において北条氏直の大軍と戦いました。これを世に若神子陣といいますが、戦線は少勢の徳川軍優位の内に推移し、やがて北条側から停戦和平の提案がされました。この時、徳川方の初議の使者として選ばれたのが、井伊万千代直政でした。彼は心中勇躍しつつ万一の場合の覚悟をもって北条方に乗りこみ、無事大任を果たしましたが、その時鎧下着の内にひそかに忍びもって行ったのが、直虎より贈られたこの志津兼氏の懐剣でした。万一不慮の際には北条方の主な者をあたう限り斃し、直政自身も自殺するための必死の道具だったわけです。大志津独特の地刃の烈しさに勝るとも劣らぬ直政の気概偲ぶ貴重な史料でです。直政若干二十二才でした。ここから井伊直政の異数の立身がはじまったのです。
(HP別集
井伊家史料文書類参照)
この刀剣の姿体について説明的に記すと次のようになります。
「―志津とは元来、美濃国の地名であるが、此の地に正宗の門人兼氏が来住して作刀したことから、地名をとって志津三郎兼氏と呼称している。従って、単に志津と呼んだ場合、兼氏を意味することになる。古来、彼は正宗十哲の一人に数えられ、それらの中にあって正宗に最も近い作風を示す刀工の一人であって、尊称して「大志津」(おおしず)ともいう。本作は板目に杢目を交え、総じてつみ、地景細かく頻りに入り、刃文は湾れ調に互の目が頻りに交じり、沸厚くつき、金筋・砂流し頻りにかかる等の出来口を示している。一見して相州伝上位の秀作であり、比較的大きめの互の目が連れて焼に高低を見せる刃文の出来口には、在銘や古来の無銘極めの志津兼氏の短刀に強く結ばれるものがあり、ここに志津の極めが首肯される。なお本刀は、通常の兼氏在銘の短刀に比してやや寸延びで内内反りのついた姿形であるが、重文の名物稲葉志津の短刀に、本作とやや似た姿形を見る。地沸が一際厚くつき地景の夥しく入った鍛えは明るく冴え渡り、刃中は光輝く刃沸で一杯に満たされ、金筋・砂流し頻りに閃くなど、相州伝上位作の美点と技倆の高さを余す処なく示した出色の一口である―」