平成29年 NHK大河ドラマ

紺糸威本小札胴丸

-井伊直平・直宗・直盛・直親・次郎法師直虎所用-
    (井伊家最古の鎧胴・室町末期)

井伊家に係る甲冑類の中では最古の鎧胴で、正式には胴丸(古称腹巻)と称します。井伊氏は直政の前代一時滅亡に瀕し、伝来古器の殆どを失うに至りますが、唯一人の女性当主で直政の養母となった次郎法師が辛うじて井伊の家名を存続しました。本品はその次郎法師直虎が護持した井伊家ゆかりとして希有な武具の遺品。中世末・戦国期に及ぶ、次郎法師の数代前から次郎法師に至る時代のもので、次郎法師所用と伝えるのも首肯されます。尚、一部江戸期に修補されています。(寄託調査品)

「おんな城主 直虎」
関係遺品特別コーナー


避災回禄観音(龍泰寺旧尊)

-井伊直虎護持観音

永禄三年井伊谷龍潭寺の前身である龍泰寺炎上の際危うく難を逃れ救出されたといわれる観世音菩薩像です。その後井伊直虎の信仰護持仏となりました。その旨の資料がのこされています。直虎歿後井伊家にゆかりの深い奥山家に伝えられました。傷んでいますが慈愛の表情ゆたかな平安時代の仏像です。
「遠州錯乱」と呼ばれる混乱の時期、井伊家では度重なる合戦や謀反の疑いなどにより多くの一族を失いました。直政の父・直親も若くして亡くなり、後継ぎを失った井伊家は存亡の危機に立たされます。この危急に当って井伊家を護持したのが歴代ただ一人の女当主・直虎です。
直虎は向背定まらぬ乱世の只中を泳ぎ切り、断絶に瀕した井伊家の家名と祭祀を直政へと引き継ぎました。表立って歴代中には数えられませんが、井伊家にとって忘れがたい女武将です。

この直虎が平成29年(2017年)の大河ドラマの主人公に決定しました。井伊家というと「直弼公」ばかりで肝腎の大先祖で徳川四天王の筆頭である井伊直政(『井伊軍志』参照)や直孝(伝記執筆中)が閑却されていることを常に遺憾に思っていました。今回戦国井伊の女主人・直虎にスポットライトがあてられると、間接的に直政も注目されることになります。井伊家は「直弼公」オンリーではありません(直弼の真姿は新史料をまじえ現在執筆中-28年夏刊行予定)。この際改めて井伊家の歴史を温故し知新したいものです。
当館は極めて少ない直虎の遺品等直接資料を寄託保存しています。
このページでは貴重な直虎資料を御紹介します。

■直虎愛用の鏡

 紐座は菊亀甲亀紐、松に二羽の鶴を配した吉祥文様の鏡です。亀と双鶴が接嘴した図柄は室町時代の特色とされています。 (寄託調査品)


平成26年5月にNHK「歴史秘話ヒストリア 」にて紹介されました。
 (四神旗の写真はTV放送より)
■直虎直筆四神旗

 中国古代の思想に端を発する四神は、東西南北四方の守護神として広く用いられ、朝廷での祭儀においても四神旗が掲げられた例がみられます。直虎は井伊家守護のため、本営の帷幄中にこの四神旗を備え置きました。北方の玄武に代わり、勾陳が配されています。(寄託調査品)

(NHK 制作発表資料2015年8月より)

■井伊直虎記念贈遺 
    井伊直政懐中の秘剣
       -志津兼氏(長さ約七寸七分 生ぶ無銘)-
 (寄託調査品)
天正十年徳川家康は甲州若神子において北条氏直の大軍と戦いました。これを世に若神子陣といいますが、戦線は少勢の徳川軍優位の内に推移し、やがて北条側から停戦和平の提案がされました。この時、徳川方の初議の使者として選ばれたのが、井伊万千代直政でした。彼は心中勇躍しつつ万一の場合の覚悟をもって北条方に乗りこみ、無事大任を果たしましたが、その時鎧下着の内にひそかに忍びもって行ったのが、直虎より贈られたこの志津兼氏の懐剣でした。万一不慮の際には北条方の主な者をあたう限り斃し、直政自身も自殺するための必死の道具だったわけです。大志津独特の地刃の烈しさに勝るとも劣らぬ直政の気概偲ぶ貴重な史料でです。直政若干二十二才でした。ここから井伊直政の異数の立身がはじまったのです。
 (HP別集井伊家史料文書類参照)


この刀剣の姿体について説明的に記すと次のようになります。

「―志津とは元来、美濃国の地名であるが、此の地に正宗の門人兼氏が来住して作刀したことから、地名をとって志津三郎兼氏と呼称している。従って、単に志津と呼んだ場合、兼氏を意味することになる。古来、彼は正宗十哲の一人に数えられ、それらの中にあって正宗に最も近い作風を示す刀工の一人であって、尊称して「大志津」(おおしず)ともいう。本作は板目に杢目を交え、総じてつみ、地景細かく頻りに入り、刃文は湾れ調に互の目が頻りに交じり、沸厚くつき、金筋・砂流し頻りにかかる等の出来口を示している。一見して相州伝上位の秀作であり、比較的大きめの互の目が連れて焼に高低を見せる刃文の出来口には、在銘や古来の無銘極めの志津兼氏の短刀に強く結ばれるものがあり、ここに志津の極めが首肯される。なお本刀は、通常の兼氏在銘の短刀に比してやや寸延びで内内反りのついた姿形であるが、重文の名物稲葉志津の短刀に、本作とやや似た姿形を見る。地沸が一際厚くつき地景の夥しく入った鍛えは明るく冴え渡り、刃中は光輝く刃沸で一杯に満たされ、金筋・砂流し頻りに閃くなど、相州伝上位作の美点と技倆の高さを余す処なく示した出色の一口である―」


 (寄託調査品)
直江志津の兼友の作。直虎常用の脇差で、江戸時代には与板藩主の井伊直暉の愛刀でした。拵は直暉時代のもので、いかにも品格にあふれた優作です。
                   井伊直政神像

像背墨書によれば、旧佐和山城麓愛宕山仙琳寺(直政終焉の地)に藩主井伊直中(直弼の父)が寛政十年二月一日(直政の命日)に造立奉祀したもの。明治三十四年四月、井伊直政三百年記念祭の節に修復再興されたものです。
直政晩年の容貌をあらわしたもののようです。仙琳寺義空の造顕銘があります。
井伊直政像

彦根職人町弥惣右衛門謹作。
美化された青年像。
井伊直政像(井伊神社御神体

<当サイトにおけるすべての写真・文章等の著作権・版権は井伊美術館に属し、無断で転載することを禁止します。>

→井伊直虎関連資料のページへ

■井伊直虎所用脇差 
    銘 兼友
 (井伊美術館蔵)
戻る