母校の彦根東高等学校は、藩校弘道館の流れを継ぐ歴史的由緒を誇るいわゆる名門進学校だけに、図書館の蔵書は高校には勿体ない程充実していた。ここへ極端にいえば入り浸るようにして『大日本史料』を読んだ。苦手(大抵全てそうだったが。但、大目付をオオメツキ、典厩をテンガイと読んだ歴史の先生、訓を違えた漢文の先生には不要なチェックをした位のことはある)な数学や英語の時間は可能な限りサボって図書館通いである。図書館の事務所が職員室代りだった国漢の先生からみれば、本を読んでいるのが何者かはわかる筈だが、ジロリと一瞥を与えてくれるだけで何も咎めることはなかった。今から思えば素晴らしい校風であった。

 これは何かに書いたことだが、二十年程前母校の総会か何かに招かれて話をしたとき、図書館へ行ってその本類の貸出票をみたら、一番最初に私の名前があるだけで、以来誰も借り出した者はいなかった。あの『大日本史料』という大部な貴重書が「禁帯出」扱いでなかったのも凄いことである。むつかしい漢字が多い歴史書であるから、不得要領な部分も少くなかったが、あの分厚い重量のある本を抱えての往還はえもいわれぬ優越感を感じさせてくれた。特に嬉しかったのは、大阪両陣のときの井伊家の侍たちの功名書上であった。当時の侍たちにも我々が学校を怠業する程度ではすまない程のいい加減な連中がたくさんいたということである。サムライというものはこうあるべきもであって、こうであった――と観念的に思いこんでいた当時の私には、大きなカルチュアショックであり、目からウロコであった。


井伊美術館開館後の道のり(過去の特別展)については、こちらをご覧ください。

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井伊家桜田殉難者書上(鈴木源蔵記録)―井伊達夫所蔵文書のうち―
即死者の中に中村家にとって縁者である二刀流の達人河西忠左衛門の名が見える。

 ただ「好き」だけで古文書の紙魚を逐い、古ヨロイの残片を拾いつづけて、30ちかくもの春秋を送ってしまいました。歳月堆積のあかしともいうべき蒐集古物も、いささかの量になりました。
 これを一人の楽しみとし、櫃におさめ、行李に縛って、家鼠や衣魚両公の桃源郷となし、やがて恍惚として逝くのもまた可なり、ですが、むしろ陋屋に鄙の物集めなりともこれを公開し、同学同好、友愛の媒とするこそ、たのしけれ、と思い至るようになりました。
 近頃は古文化財保存が声高に叫ばれ、その影響ゆえか、各地に個人博物館ないし資料館の開設がしきりです。
 趣意書など読みますと、地方文化へ寄与するためとか、いろいろ称揚すべき主旨を掲げてあり、ただ感服するばかりです。また、それを首肯させ得るだけの立派な収蔵品を数多く、それぞれに保存されているのも事実のようであります。
 私が今回設けました「戦陣武具資料参考館」はいうまでもないながら、とても左様なみごとなものではありません。比較すれば蔵品もいまだ寥寥たること論をまたない。
 したがって、文化財理解の一助にとか、もののふへの鎮魂などと申すような立派な旗印は掲げられません。ただ「好き」が昂じたまでのことですから。…
 しかし考えてみると、ただ「好き」だけでは、この年齢になってくるとやはり妙に淋しく、物足りない気分です。
 これを機会にもっと本念を入れて歴史と古武具の勉強につとめ、人生というインタビュアーに、なにかすばらしい答えを出せるよう研鑽したいと念願しています。
 ところで本館開設に係り、諸先生方から有難いお言葉を賜りました。末筆になりましたが誌して厚く御礼申し上げますと共に、御所蔵の貴重品を快く寄託されました方々にも、深甚なる謝意を捧げる次第であります。
                                                          合掌
                                         昭和59年歳稔陽復吉祥日
                                                   館主 中村達夫

これが、更にどっぷりと井伊家の侍と軍事に浸かってしまうはじまりとなって、社会人になってからも紙キレ1枚の古文書さがしから赤ヨロイの部品採集までが、人生の主目的のようになってしまった。その挙句、彦根藩甲冑史料研究所の看板を、書士業事務所兼営の自宅に掲げるようになった。昭和40年はじめの頃である。ちょっと本腰を入れて、井伊の赤備にとりかかった。
 同じ頃、KBS京都滋賀放送局の『歴史裏話あれこれ』という定時放送番組(週3回)を企画し、原稿を書いて放送する仕事もはじめた。これは日本歴史の裏話を勉強するのに大変役にたった(結果的にこの番組は20年ちかく続いた)。

 『彦根藩朱具足と井伊家の軍制』というのを出版したのは昭和45年で、私の甲冑研究人生を方向づける記念的著作となった。彦根藩甲冑史料研究所を開いたおかげで、方々から史料を寄せてくれる人もあって、その成果が早速実を結んだ形になった。B6版180Pの、今から思えば促成栽培の粗笨であるが、その後の史料発見と図書の刊行のいろいろを見直すと、全ての発見がこの史料研究所の開設にあると思われる。現在の井伊美術館の原点も、もとを辿ればスタートはここにあったということをこの頃痛切に感じるのである。       (平成27年4月24日)


戦陣武具史料参考館(御池西洞院)

戦陣武具参考資料館 開館によせて


 井伊家の文書類や武具関係資料を調査研究するために、現在では故郷となった彦根の住居に「彦根藩甲冑史料研究所」を設けたのはもう40年ちかい昔のことである。彦根をはらって京へ出たのはそれから十数年後の昭和58年(1983年)春だったが、1年程して少し落ちついた翌年、中京の御池西洞院に「戦陣武具資料参考館」を開いた。これはその後下鴨北園町に移転したが、この施設がのちに東山祇園中村甲刀修史館(平成11年開館)となり、私の旧与板藩井伊氏継承により、更に京都井伊美術館へと発展的改称をみたわけである。
 「彦根藩甲冑史料研究所」は現在も併設のままであるが、「戦陣武具資料参考館」はいわば私の現美術館開設に至る起点、母体となった記念的資料館であるので、その時の開館の辞と御支援の方々の文章を本書の為に改めて再録しておこうと思う。
                                         (平成18年 井伊 達夫)

戦陣武具資料参考館のこと

(『歴程集』より。 肩書きは当時の現職による)

中村甲刀修史館の開館によせて

中村甲刀修史館から井伊美術館



 中村達夫さんは此の度、甲冑等を公開する専門の資料館を主目的に、また歴史や武道に興味を抱く人々の語らいの場としても活用していただこうという趣旨で、「中村甲刀修史館」を創設されたが、この開館を機に氏が長年に亘り慎重に吟味研究されてきた刀剣・甲冑および関係古文書類の研究成果が発表されていくことになるのはまことによろこばしい。
 中村さんは彦根に生まれ、彦根に育ったことから井伊家に対する思い入れは一入のものがあり、井伊家の誕生と井伊戦法の秘奥の解明や同家の甲冑・刀剣など武具類の研究に関する著書は『井伊軍志』『井伊家歴代甲冑と創業軍史』を始めとして多くをかぞえ、何れの著述も幾多の武器・武具の異例や古文書等の史料の博捜によって分析し実証された画期的な労作である。しかも本年4月には同修史館開館の記念刊行物として、総頁数約850頁に及ぶという大著『刀と鎧と歴史と―中村達夫刀史論集―』を物されており、その情熱と活力の凄さには、ただただ驚くばかりである。小生も拙著の中で少なからず氏の学恩を蒙ってきたことをこの場を借りて申し添えておかねばならない。
 中村さんは若い頃、歴史作家を目指しておられたと聞き及んでいるが、さすがにその巧みな表現力や語彙の豊かさ・発想のすばらしさ、また検索力は並外れたものがあり、それ故か氏の著述はこの種の本にありがちな堅苦しさがなく、読む者をぐいぐいと引き込んでゆき、一気に読了させる魅力を持っている。
 甲冑と刀剣の両者は不離のものであるというのが中村さんの持論で、常日頃提唱されているところである。たしかに甲冑と刀剣は防禦と攻撃という二つの相対峙するファクターであり、この両面にわたって深く極めることこそが研究者の理想の姿と言えるのであるが、現実にはどちらかに偏る研究者が殆どで、そうした観点からも氏は数少ない貴重な存在といえるのである。これまで中村さんは第一回薫山刀剣学術奨励基金による研究論文に「名物刀剣における伝承の発掘と考察・典厩割国宗の場合」で入賞、さらに第二回薫山刀剣学術奨励基金による研究論文「名物」丈木攷」でも入賞を果たされており、刀剣史話の考証・研究の分野でのアプローチは多くの刀剣研究家より注目を集め、小生もその並々ならぬ熱意には常々敬服するところである。中村さんが外部から管理を委託されている刀剣類は(財団法人)日本美術刀剣保存協会が指定する重要刀剣以上の物を含め数多い。質的にはすぐれているばかりでなく、資料的にも価値の高いものが多いが、それらについて将来順次考証公開展示されてゆくことは斯界の展示において随分貴重であり、大切な仕事であると思う。今後の益々のご発展を念願する次第である。
          (『寄託・蔵品圖録』(平成11年)より。肩書きは当時の現職による。前刀剣博物館副館長)

田野邉 道宏(財・日本美術刀剣保存協会事業部長兼調査課長)

 甲冑・武具の研究を軸に、刀剣にまつわる史話の考証などをはじめて、もう大分の時 がたちました。調査のため諸方から武具刀剣類を、それも長期にわたってお預りする のは常のことです。しかし預託をうけたままでは惜しい。そこで専門家の研究のためな ら特別にお見せするということで、京都戦陣武具資料館(旧称戦陣武具資料参考館) というものを設けました。爾来、既に20年以上の歳月が過ぎました。
 その間。是非公開を!という一般の方々の声頻りで、何とかこの要望に応えたいもの と願っておりました。自分にしか出来ない武具専門の美術館の実現は私の人生の夢で もあります。
ただ信用だけで貴重な資料の預託をしてくれている所蔵者方に、夢のような公開資料 館実現の可能性の予告を折にふれ時にふれ言いまわって、公開への了解だけはおお むねではありますが、早々と取りつけてしまいました。これがまず第一の先決条件です 。暇を見つけてはの場所探しがそれから始まりました。故郷彦根は勿論、京北山の奥 、はては四国川之江の戦国古城址まで…。
 「所詮は、やはり夢か―」大した資金もない上のあてどのない探索放浪。旨い具合にい く程世の中甘くない、しかし今ふり返ってみれば、そのような夢さがしの旅を続けること 自体が、たとえ徒労であっても退屈な日常生活のくりかえしの連鎖を破ることになって 楽しかった。しかし、その時の現実の思いは「無理な算段は、やめた」でした。いい年齢をして、夢ばかり追っては生きられない。諦めました。
 その途端、まさに断念したトタン、何と隣家が売りに出たのです。しかし、これも話とし てしては条件的にむつかしく、断腸の思いで諦めていたら、他の不動産業者から同じ 話が舞いこんで…そして結局私の手に…。
 遠い所ばかりさがしまわっていたが、本命は何と足許―隣り―にあった。灯台下暗し というか、運命の皮肉というか。これが縁というものなのでしょう。目に見えぬ天恵という ものをこの時ほど感じたことはありません。「中村甲刀修史館」(当時)は、このような訳合いで 誕生しました。
 館の本体は江戸末期建設に係わる茶邸、文化財的な古い邸屋ですので、戦国豪族 の居室を再現した他は内部を出来る限り旧状を損なわない現状維持に努め、外観を 武家屋敷に改装しました。表門は井伊家の京都藩邸(河原町朱邸)大門を模し、門内 に井伊神社(御神体井伊直政公)を祀りました。玄関脇の茶室嘯雲庵は京都山崎妙喜庵の利休の茶室待庵の規模に則り、持仏堂には伝一乗止観院文殊菩薩坐像(等身)を安置しています。
 私は、私自身は勿論、古武具やその歴史に政治的色合いをつけることは大嫌いで す。それを断った上でいうのですが、現代ほど”有事断然”の実精神が要求されている時代はないと思います。有事断然、一息截断はまことの武士の精神です。このささやかな資料館がこの心を少しでも体現し、合わせて古武具のみならず、歴史や武道に心を むける人々の末永き談議所となれば幸いこれに過ぎるものはありません。また私自身も 、これを機に更に古武具を大切にして研究にいそしむ決心をしました。時を越え、現今に残るものには目に見えぬ命が宿っています。この命をおろそかには出来ません。
                                          平成11年11月吉辰
                                          井伊達夫 敬白

井伊美術館への道のり




昭和30年代の彦根東高等学校校舎の一部。
(この部分はこれでも旧校舎に対して新校舎と呼ばれていた。)

彦根城古写真。天秤櫓より本丸天守を臨む
(井伊美術館蔵版)


歴史と鎧に興味をもちはじめた高校時代

赤鎧への興味と彦根藩甲冑史料研究所の開設

 彦根藩井伊家の軍事的な部分、特に我国唯一の特殊軍制である「赤備え」――朱具足軍団――に興味をもちはじめたのは、中学一、二年生の頃であったと思う。夏休みの研究に、彦根城のなりたちや曲輪の名前などを畳二枚分位の紙に図示して出したら先生にえらく褒められたことがあって、その辺りから急に井伊家の歴史や赤塗りの鎧兜に意識をもった。それが発育して、彦根藩としての軍制と戦史の調べ事に、肝腎の学業はそっちのけで頭を突込むことになっていった。


佐和山城址遠望。搦手側より本丸方面を望む。
城址として整備される以前、昭和30年代後半の撮影。



高校時代、最初の短編小説『蒲生郷舎の首級(がもうさといえのくび)』
できはともかく、文芸部始まって以来の歴史小説である。
母に清書を頼んだところ、旧かなづかいとなった。

戦陣武具資料参考館開館の辞

歴史ものを執筆し、ときに新史料を発掘したりすることがあるので、しばしばマスコミ関係の人に取材を受けます。そのとき、決まって聞かれるのが、なぜ、そんなに歴史に没入するようになったのか。そこから派生して、なぜ、そんなにヨロイやカブトが好きになったのか。………
 このとき大抵、インタビュアーは部屋の周囲にある奇態な(としかみえないらしい)古甲冑に視線をおよがせ、反転するとおのが理解の及ばぬ古怪な棲物をそこに発見したように、好奇と、なかばの羨望と、またなかばの憐みを宿した複雑な眼の色で、私をみつめるのです。
 そこで私は、きまって小首をかしげる。無言で、です。取材者は気をきかせて、呼び水を灌ぐ。
「井伊家のおサムライの子孫だからですか」
 これまた、型にはまったように、同じ問いです。だれもいまだかって、この軌を外した人はいない。人は同じ状況のもとでは誰しも同じことを考える。とかなんとか、そのようないにしえの名言があったやに思いますが、そのたびに私は、古人に篤い畏敬のおもいをはせ、眼前にある質問の本旨を忘却してしまうのが常でありました。
「そこには現代にはない夢が、ロマンがあるからです」
 以前はそんなことを、チャラチャラと答えていました。取材者側はこういこう格好づけた聞き栄えのする表現をよろこぶ。極端にメルヘンチックか、激越な現実調か。口調は上下の振幅が厚い方がいい。
 しかし、ことばにアクセサリーをつけ、厚着させればさせるほど、一見そとみはいいようにみえますが、中身が脱落してしまう。表現は事物の本質から乖離したものになるのです。
 歴史や甲冑に興味をもったのは、幼稚園の頃からです。そんな年頃に「現代にない夢がロマン」がわかるはずがない。
 今にしていえば、なにか自分の血にわけもなく惹かれるものがある―好き…。ただそれだけです。つまり、ことばで姿よく表現するほどの理由は「ない」のです。
「好き」に理屈はないと思います。そのことばに別に取立てて際立った大義名分はたてなくてもいいでしょう。