私が発見して現蔵している『公用方秘録』中における大老直弼狼狽の一条(安政5年6月)について末松修氏とのやりとりの部分、母利氏の文と聊かニュアンスが異なるので、補記しておきたい。
従前伝えられてきた米国との条約勅許無断締結時における直弼の態度と全く異なる記録を前記の秘録中に見出したときは、実のところ心底驚いた。
本資料を私は『公用方秘録』(木俣家本)と表記している。木俣家に限らず私が史料にあえて出所を瞭らかに「・・・記録」あるいは「・・・本」等と名づける所以は、あく迄旧蔵家先祖(藩政期)の記録文書に対する思い入れに報いる為である。当時彦根で古物を商う人の多くは、旧所有者の手前、その他いろいろな意味から大抵出所を隠蔽したものであるが、私は将来を慮ってあえて旧蔵者名を冠した記録名を残してきた。隠すのは容易なことであるが、それをしないことが伝世史料に対する正しい接し方、礼儀と考えたわけで、この姿勢は正義であると私は今も考えている。
さて、『公用方秘録』を入手して間もなくのこと。それは多分、昭和44、5年頃と記憶する。わたしはその頃しばしば末松修氏のお宅へ出入りして、彦根史話のやりとりをしていた。末松氏の住いは外堀端(旧中堀)ぞいの旧鈴木権十郎邸址か、駅前近くの明塚家隣邸か、とも角、そのどちらへも伺っていた(末松氏は私の高等学校時代の先生であったが、在学中は一度も授業を受けたことがなかった。社会に出てから井伊家の歴史を介して交流したもの不思議なことである)。
私は井伊家の武備と藩政初期、井伊直政、直孝時代が得意で、氏は井伊直弼の研究の第一人者であったから、互いに有無相通じるところがあり、一談後はオイ、一杯やるか―ということもあり、何度か酒肴の馳走にあずかった。
そんな例のうちの一日、氏に『公用方秘録』を示し頭書の一件を話した。この時は私が氏の宅へ赴いたのではなく、氏が当時彦根の外町にあった拙宅を訪ねられたときであった。
大変暑い日で、氏は自転車に乗って、暑熱をものともせず、西瓜を片手に引っ提げてこられたのが記憶の襞に鮮やかにのこっている。西瓜か史話か、いずれが先になったのかその辺は曖昧だが、『公用方秘録』の問題の部分を呈示すると、氏はかなりの間絶句していたが、やがて、ウーム、ウームと首を傾げながら二、三度呻吟し、
「こりゃ、えらいこっちゃな」
「・・・・」
「これが記録としてな、正しい方のもんやナ。こりゃ、困ったがな。えらいこと書いたる」
「・・・・」
「こんなこと表沙汰になったら、直弼さん、面目丸潰れやナ」
従前の公用方秘録として流布しているものが改竄されたものであると知ったときの氏の驚きは大変なものであった。
私はこの時、近々これを影写本として出版しようと思っていることを話した。
「こんなもん、そのまま正直に解説して出したら、彦根の信奉者らが騒ぎよるデ。マ、キミがそのまま出すちゅうならな、正しいこっちゃからやったらええけど・・・。むつかしいところやな、こりゃ。わしは何もいわんが、ま、よう考えたってや」
記憶を再現すると、会話の本旨はおよそこのようなものであった。
氏はここで『公用方秘録』中の重大なこの事実を充分了知したのである。そして公表をやめろとはいわなかった。彦根の「信奉者ら」というのは多分「井伊直弼教」ガチガチの人々のことであろう。本当の表現はもっときついものであった。そういう人々とは没交渉であったからどういう人々を指すのか私には興味がなかった。ただ「考えたってや」ということばが、何とも優しかった。これは事実をあえて公表しないという、正しい歴史研究に反するいわば因循な態度を承知の上の優しさ、ナサケであると私は感じた。これは事実歪曲といわないまでも、事をありのままに研究し公表するという歴史研究の根本正義には反する姑息不義な行為ではあるが、「考えてや」という一言に私は動かされた。
今更、この事実を公にしたとて、怖れるものは何もなかったけれど、私の心が動いたのは氏が直弼に対して史家としてより、人間としてある種の強い愛情を抱いていることを感じたからである。当然ながら私も同様である。非公表を暗喩されたら「そんなこと、でけまへんデ」となるが、「考えたってや」には弱い。
そこで、表現的にはわかる人にはわかる―という範囲の書き方にとどめた。そのままでは少し気がすまぬところもある。違うカタチの直弼の批判は同書の解説でしておいた。考えてみれば過去の彦根の歴史研究の上で、直弼さんに対しいささかでも批判がましいことをいったのは私しかいない。これ以上のことは直弼さんに対する、いわゆる「さいなみ」であると感じた。
「えらいもん見さしてもろた。直弼さんのイメージがガタ落ちやが。」
記憶を辿ると大筋はざっと以上のようなものである。要するに末松氏はこれまで知られている彦根井伊家などの「公用方秘録」の改竄の事実を了知し、私も右のような事情による個人的判断で公表は控えたわけである。
私はその後京都へ出、いくつかの書物はものしたものの、俗事多忙の塵中に埋没、「井伊直弼ノート」も同時に大切に保存されたまま今も塵埃にまみれたままである。
「神・井伊直弼」時代の彦根をふりかえると、まるで信じ難いハナシである。末松氏は私に、「これは公表の時期ではない」などという指示的なことをいう人ではなかった。もとより左様な態度はいかなる人物に対しても許さぬ私であることを末松氏ならずとも彦根で私を知る人は皆承知していることであった。
というわけで、母利氏の文とは微妙な違いがあるが、これはもとより母利氏の責任ではない。私の説明不足であったのだろうけれど、畢竟、私は歴史学というものは人間学であり、また文学であると信じている。彦根井伊家の歴代がいまだ訂正されずにある現状を考えると、数十年前の末松氏と私との『公用方秘録』に係る神話的秘話などは、視点の当て方によっては興味ある人間学であり、また一種の文学であったということができるのである。
(『歴程集』 平成18年刊 より抄録)
井伊直弼の政務要録である私家蔵本『公用方秘録』の中には、日米修好通商条約調印直後における直弼の失策の自覚と狼狽を明確に記している。この事に関しては早くから気付いていたが、当時の彦根の直弼一方的尊崇の雰囲気から公表は時期尚早(昭和45年-1970-頃)と判断し、控えていた。「時を待つ」というのがその時の私の決心であった。
世が「平成」になって彦根市も市史の新修編纂を開始し、私も史料類の提供協力をするようになったので、発表にふみきった。この一件は幕末政治史の重要なポイントを根本的に書き直さなければならない文字通り秘録の一件といってもよかった。
直弼の政治姿勢や平常の覚悟は如何にもあれ、彦根における直弼公はとにもかくにも神サマではなくなって、血が通った「井伊直弼」になった。直弼も欠点や弱味のある普通の人間である。天下の大老だからといって万能であるわけがない。これまでの「観念的直弼尊像」では決して直弼を正しく評価することはできない。
これによって沈着冷静、不動の勁い精神の権化のごとくにのちの人々に思われていた直弼のイメージは、根本から崩れてしまったかも知れない。しかしその根本において、正義の人であった。これらの事実は正しい事実として行かねばならない。直弼の正しい評価はこれからである。これでよかったと私は思っている。
頂戴した母利氏の文章は私の「直弼稿」(題未定)に特別寄稿として全文を収録発表の予定です。また本文のいくつかは現展示資料に係る部分稿に分けられますので、それについてはホームページ要所に摘録させていただくつもりです。急ぎの拙文ですので意のつくせぬ舌足らずなところいろいろ不備のところがあるやも知れませんが御察読をお願い致します。
(平成24年3月)
歴史研究者と史料
京都女子大学文学部教授
(元彦根城博物館学芸員)
母利 美和
・・・前文省略・・・
問われているのは、歴史研究者の姿勢であろう。近年の歴史論文に限らず、歴史研究者は歴史の大筋を理論的に解明しようとするばかりに仮説を立て、その仮説にしたがって必要な史料を抽出して論じる場合がある。論理立って、必要な史料が並べ立てられれば、あたかも実証されたかのような錯覚に陥る場合も見られよう。
しかし、必要な史料を渉猟することが大事なのではなく、遺された史料の全体像から、記された情報を例外なく、過不足無く論理的に位置づけなければ、確かな歴史像を描くことは不可能である。断片的な史料を抽出し、いくら直弼の仮想人間像を形作ったとしても、新たな史料の発見によりもろくも崩れ去ることになる。理想は、新たな史料がいくら出てきても、それまでの歴史像の補足にこそなれ、齟齬をきたさないことであろう。それが大変困難であることも重々承知しているが、その姿勢こそが大事なのである。
私自身、これを教訓として真摯に史料と向き合う姿勢を、時には氏が「彦根藩公用方秘録」の「公表」に際してとられた史料への配慮も心がけながら、これからも続けていきたいと念じている。
最後になるが、私は勿論、新たに直弼を論じる研究者たちは、この史料の第一発見者は井伊達夫氏であること、またこの史料から直弼の人物像の違いを充分承知したうえで、時代の背景のなかいわゆる「公表」を控えられた井伊氏の「配慮」に敬意をあらわし、尊重しなければならないと感じている。拙著刊行時(二〇〇六年五月)は、これらの事実を知らなかったが、この事を認知した後の二〇〇七年三月に刊行された『彦根城博物館叢書7 史料「公用方秘録」』でも私は経緯について記さなかったため、私や佐々木克氏をはじめとする彦根城博物館の共同研究での成果ではじめて明らかにしたかのごとくになってしまった。井伊氏にはもっと礼を尽くして、これらの経緯を明記すべきであったと反省している。今後は、勿論私もこのことに十分注意することはもとよりであるが、この問題に触れる研究者各位には、これらの経緯を十分に踏まえて、研究発表の際には第一発見者である井伊氏の歴史と人物への心遣い、史料保存の辛苦と情熱に配慮すべきだと思う。
(平成24年3月 『井伊達夫氏と「井伊直弼」』より抄録)