井伊美術館
平成28年特別展
鳥毛の棒馬印
(木俣守安大坂陣所用)

右:難波戦記
冬の陣で守安がこの馬印を押し立て真田丸の柵を破り堀へ飛び込み、櫓下にとりついたことが記されています。

紺糸威一文字頭本伊予札胴丸
(松代藩真田家伝来)

最上胴丸
(伝・広瀬美濃守 「礼の馬」(於真田陣)の際所用)

朱塗桶側腰菱綴二枚胴具足
(井伊直孝所用)

刈白熊異形前立付銀南蛮形五枚胴具足
(伝・真田信之所用)

紺糸威仏胴朱具足
(井伊直政所用・松山藩犬塚家伝来)
桶側二枚胴朱具足
(井伊直政所用)
                 開催の言葉

 全く歴史を知らない人はともかく、そうでない多くの日本人は何故か「ユキムラ」が好きなようです。おそらくアンケートをとれば「ユキムラ」という音の響きに不快な思いを抱く人は殆どいないと思います。それほどまでに愛される存在の歴史上の人物という点では「ヨシツネ」と双璧をなすといっていいかもしれません。概して日本人は戦いに敗れ散った者に特別な想いを抱くようで、「ミツヒデ」「ミツナリ」といった武将も根強い人気があるそうです。しかしミツヒデやミツナリに対して、ユキムラとヨシツネにはどこか「戦(いくさ)職人」的なにおいが強くあります。言い換えれば政治臭くない点が好まれる理由のひとつだと言えなくもありません。大雑把に分ければ幕末の新選組の土方歳三もやや近い範疇に入るでしょう。このユキムラ(真田幸村)という武将、本名は「信繁」であり、「幸村」は死後六十年近くたって書かれた軍記物から語られはじめた呼称です。いわば張扇(はりおおぎ)の中から出現したのです。そして四百年たちました。もってその名の本性が推測されましょう。そしてもうひとつ定着しているイメージとしては、「赤い鎧を身にまとい、家康本陣を目指して突撃し、そして力尽きる」というものでしょう。前置きはさておき、ここでようやく話が本館専門の「赤い鎧」に繋がります。
 戦国期、赤備え(鎧をはじめ武具を朱色に統一した軍団)といえば甲州武田家。その中の飯富虎昌隊(のちに山県昌景隊)、小幡信貞隊、浅利信種隊、内藤昌秀隊の四隊でした。真田に関して言えば、昌幸以前の赤色戎装については明確な記録がなく伝承にとどまっています。少なくとも隊の一部が赤備えであったかもしれないが全体ではなかった、ということのようです。武田家滅亡後、その勢力圏の多くを範疇に収めた徳川家康は、武田遺臣を井伊直政に附属せしめ、旌旗甲冑すべてを赤色に統一させました。いわゆる「井伊の赤備え」の誕生です。これが天正十年(一五八二)のことです。
 それから間もなく、井伊と真田が最初に干戈を交えたことは殆ど世に知られていません。この時井伊隊は直政自身の出馬で漸く真田の拠る上田から引き上げましたが、真田昌幸によって辛(から)い目に遭わされました。大坂の陣はそれから数十年後のことです。
 大坂城に入った真田幸村が「真田の赤備え」を率いて大活躍したことは周知の通りです。大坂両陣という、ひとつの時代の終焉と新時代の到来を確立させることとなる最後の大合戦に、井伊と真田は再び対決したのです。これは「赤備え」どうしが激突した日本最初で最後の戦いとなります。このときはおよそのこととして井伊軍の属する徳川方が大坂城を陥したので結果的には勝利ということになりましたが、全体を通してみれば徳川方一勝一敗。厳密には井伊の馬印が倒れ旗奉行が戦死しているので、井伊の勝利というのは苦しいところです。勝ち敗けはさておき、井伊と真田は武備としての「赤備え」のライバルだったわけです。それも井伊は直政、直孝、真田は昌幸と信繁親子二代にわたる因縁対決だったことを考えると、歴史はやはり面白くて仕方ありません。
 本展では両家ゆかりの甲冑武具を中心に、戦国の息吹が濃厚に感じられる資料を可能な限り展示しました。死と隣り合わせに自らの力を信じ前へ進んだ士(もののふ)の心を少しでも感じてもらえたら幸いです。博物館に寄託定住させていた「信繁最期の兜」といわれる戦国上州の代表凾人成重作の六十二間筋兜も久々に里帰りさせました。御楽しみ下さい。

                 
                
 
会期 平成28年2月1日~平成28年11月15日迄
                 開催の言葉

 多少なりとも甲冑に興味があったり知識を持つ人はともかく、全く予備知識のない人が「甲冑武装の正と奇」と聞いても具体的なイメージは湧かないのかもしれません。そういう人でも例えば「朱具足」と聞けばディテールはともかく、なんとなく想像はつくと思います。では、一体どういった鎧や兜が「正」なのか、何が「奇」であるのか、文章でいくら読んでも理解するのは難しいでしょう。その「正」と「奇」―これは「正統」と「異端」という言葉に置き換えてもいい―をビジュアルでわかりやすく、かつ圧倒的なボリュームで表現できないものか、というのが本年の展示の趣旨と言ってしまえば簡略すぎるでしょうか。
 昨年の大河ドラマの件ですが、岡田准一の黒田官兵衛はおそらくお椀をひっくり返した形の兜を着用していたはずです。ドラマの中ではもしかしたら大水牛の脇立が付いた桃形兜も登場したかもしれません。時代劇には縁遠く初めて目にする人にとっては「ナンだ、あれは」と思った人もいるはずです。つまり、それが「奇」なのです。
 しかしここでひとつ付け加えておかなければいけないのは、遺された資料から各時代のヨロイカブトの変遷を辿ることができる後世の私たちと、実際に登場したその時代に生きた人々では感覚が違うであろう、ということです。我々は各時代、地域などいろんな要素を比較したり同じ一冊の本の中で並べて見ることもできます。しかし当時の限られた情報の中で、自分の概念にはない形の鎧や兜を初めて目にしたときの衝撃は、我々の比ではありません。そのインパクトは相当なものであったはずです。
 展示においては難しいことは横に置いて、大鎧・胴丸・腹巻、あるいは星兜・筋兜といった「正統」と、変り兜や仁王胴といった「異端」を一堂に展観します。当館では平成十五年に「武門のステイタス 式正と異風と」をテーマに特別展を行いました。ちょうど干支が一巡し十二年を閲した本年、多くの新発見資料を交えて新たな形でこのような特別展を開催できるのは何よりの慶びでもあります。フォーマルな「正」の甲冑の威厳に歴史の重みを感じると同じく、ウワッ、何とこれは・・・とその着想に驚くカジュアルスタイルの「奇」の兜にも改めて注目、日本文化の多様性をみていただくと嬉しく思います。
 また、パネル併催として新発見資料の吉田松陰自筆の辞世を中心に、安政の大獄~桜田門外の変へ至るまでの関連資料のコーナーも設けました。これも当館の多様性の特色です。
                              
                 
                

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六十二間小星兜
(大野修理治長所用・彦根藩家老岡本家伝来)